まどろみと夢の間

催眠に対しての考え:雑感

こんばんわ。

僕が「催眠」という事象に対して思っている丈を

ここにメモしておこうと思います。

雑感所感ですので、適当に読んでください。

 

 

催眠ってやつはトランス状態を利用して人の機能に対して制限をかけ

その制限の中で相手を操る行為です(誤解のある言い方ですが)

その制限の中で快感を感じたり、筋肉硬直を感じたり、するわけですよ。

 

でもここで思うわけです、いやいやちょっと待てよって。

人間ってそもそも、どういう存在なんでしたっけ。って思うです。

なんやかんや生まれて、今まで生きてきてるんですよね。

もしかしたら背負っている物が沢山あるかもしれない、トラウマも、嫌な事も沢山あるかもしれない。

 

でも、適応してきたんです。

今も、すこしづつ、適応してきてるんです。

 

人間って奴は、本当にすごいんです。

 

生まれてから、気づいたら歩けるようになって。

今まで習得の連続なんです。ありとあらゆる、必要に強いられた能力を

習得してきた、存在なんです。それが人間ってやつなんです。

必要と強いられなくても、学習によって要素を取得してきた。

とても力強い、眩しい存在なんです。

 

上記鑑みると

その、人間の可能性、適応性に「催眠」という枷をかけるって言う行為は

下手をすると人としての価値を侵す行為だ。って思うんです。

 

だからこそ、「催眠を誇示する」はもちろん、僕は嫌いですし

「催眠後に制限を助長する暗示」を使うことであったり

「人の尊厳を侵す行為から得られた結果」を誇示するのは

どうしたもんかなぁ、とか思うわけです。

 

催眠を受けれて頂いている という事は

本当にありがたいお話なんです。

その人に協力頂いているって、本当に感謝してもしきれないな。

って思うわけです。

 

いや、もちろん。

反射を利用して催眠に引きづりこんで行く方法とか

話術でその世界に引き込んでいくとか、ありますよ。

実際対面では、そういうのは大切な要素です。

 

でも結局、それは人としての尊厳を侵している行為に近いな

とか、思うんですよね。

 

催眠はお互いのコミュニケーションなんです。

そこにマウンティングやら、服従要請やら、反応を使った騙しやらを使いながら

催眠に引き込んでいくのって、寂しいことかなって思います。

 

 

だって、施術者が押し付けるんですから。

 

 

催眠を掛けたんじゃないんです。その人の事をわかりたいんです。

その柔らかい心の中を見せて欲しい、その中に招待して欲しい。

って。それが、催眠なんじゃないのかなって思うです。

 

催眠で人の事を操るくらいなら、僕は一緒に酒を飲みたいです。

お酒を飲んで、話し合って、語り合って。

なんなら一緒にお散歩して、その人の事をわかりたいんです。

 

 

それの何が良いんだ?ってよくいいますけど。

それは施術者側が何を求めている事の裏返しだって思います。

催眠を通して何を求めたいんだろう?

承認されたい?複数の相手を好き勝手したい?

とか。

あくまで作品ですよ~っていうポジションを明確にするために

シチュエーションが凝った作品が多いのかもしれませんが、

 

男性向けの作品って、多いんです。

私なしじゃ~、私の事を思い出してしまう~

無意識で私を~とか。そういうやつが。

 

割り切れる人が多いであろう男性なら、良いと思います。

そういう点、男の子は素直ですし、ね。

とはいえ、依存を助長するのはどうかと思うわけです。

 

回数を重ねる程~とか、次はもっと~とか。

それって、男性向けだから成立してる側面はあるかなって

僕はそう思います。

 

これを女性向けにまるっと転用したらどうなるんだろうって。

僕なしじゃ~ふふふ~とか。

ちゃんと言うこと聞けていい子だね、もっと言うこと聞いて。とか。

 

僕の考えですが、女という別は

男、という性に比べて、簡単に割り切れないんじゃないかって

つまり、割り切るのに多くのエネルギー、よいしょぉ!という気持ちが

必要なんじゃないかなって、思うです。

 

そんな辛い思いをさせること、必要なんでしょうか。

催眠はあくまで、デザートであるべきなんです。

ご飯やおかずを食べて、よし、健康だぞ。って。

デザートは私が選ぼうかな。よしよし。

ま、今日は別にいいかなーって。なるべきなんです。

 

前に聞いた言葉が離れなくて...きいてしまう...

じゃないんです。

 

選ぶのは被施術者なんです。

それも、自由意志の元に。

その自由意思を尊重する形であるべき、かなって。

 

まぁ、難しいですけど、こういう話は。

僕が解除は絶対だ~とか、依存がどうのこうの~って纏めている話も

全て明文化する必要があるか、明文化による事象の認知が~とか。あるわけです。

 

でも、作品としては要望があるにはあるんですよね。

「幸せ」って言葉が欲しい、とか。

「人形化」させて欲しい、とか。

 

そういう物、作ったらそれは聞く人はいますって。

でも、それってそもそもいいの?存在していいの?

とか思うんですよ。

 

二郎系ラーメンが、油マシマシでラーメンだすじゃないですか。

美味しいじゃないですか。沢山食べたいじゃないですか。

だからって毎日食べたら、体こわしますよね。

もしかしたら、昔ながらの醤油ラーメンなら、平気だったかもですよね。

 

でも、二郎系ラーメン、というものが存在したら

手を出したく、なりますよね。

 

それっていいのかなって。

思います。

 

次々作位、そういうのを無視して

叩きのめす作品をだすかもしれません。

 

その時はしっかり!

注意書きして!行かないといけないな、って思います。

 

 

 

でも、視聴者に視聴責任を任せるのも、切ない話だなって。

僕はちょっと、そう思います。